やまのまち

短い電車は、山の上を目指す。急勾配をさもしんどそうにのろのろと登る。乗客が期待もせず黙って乗っているのをいいことに、急ぎもしない。

山の斜面の向こうから、黄色い西日が差し込んできて目に入る。あまりに低い角度で差し込んでするものだから、目を開けていられない。膝下のヒーターが気持ち良い。黄色い光に包まれながら意識が遠のいていく。隣の女子中学生は足を踏み外した夢でも見ているのだろうか。

誰も喋らないのは東京の電車も同じはずなのに、この静けさは何だろう。路線バスのような、サウンドロゴの入った広告が流れる。他では聞けない音楽がここにはある。

* * *

1〜2年に1度ぐらいの頻度で、私はこの電車に乗る。もう来ないぞ、と来るたび宣言するのだけれど、何となくこの雰囲気が恋しくなって来てしまう。誰かのためではなく、いつの間にやら自分のために来る場所になってしまって、少し申し訳ない。

* * *

山をひとつ越えると、駅の周りにちょっとした街が広がっていた。ひなびたスナックや空いてないタバコ屋しか見かけなかった山あいの、ここにだけは銀行やドラッグストアがあった。

「やまのまち」。こんなに直球の名前があるだろうか。直球過ぎて、フィクションの中の街のようだと思った。

私は海抜50mもあれば高いと感じてしまうような低地で生まれ育ったから、「やまのまち」の想像ができない。山ではどんな人がどんな家で暮らしているのだろうか。お店はあるのか、どんな獣やお化けが買い物に来るのか。

* * *

いらぬことを考えている間にも下車駅にたどり着き、ひなびたスナックと空いてないタバコ屋の間の路地を通り抜ける。心臓破りの坂の真ん中あたりで、おばあちゃんが世間話をしている。

心臓破りのおばあちゃんたちをすり抜けると、国道からは辺りが一望できて、その向こうでは海と空が溶け合っている。天国にもっとも近い場所は、山ではなく海なのかもしれない。

天国にもっとも近い場所を見下ろす山の上、小さく静かな街に友を訪ねてやってきた。土産は花ぐらいしかないけれど、いつものように黙って迎えてくれるだろうか。

灯りはつけない

ベッドの擦れる音がすると、私が起きたと思ってモモがごはんの催促をし始める。昨夜やったパウチの残りを皿に開けると、脇目も振らずにかぶりつく。

雨が降っている。庭の木々から雨粒がしたたり、コンクリートが色を濃くする。虫や鳥は鳴き声を潜め、飛行機の音はいつもよりよく響く。

家主がマッシュパンプキンを作ってくれた。味付けはほとんどなく、レーズンの酸味が軽いアクセントになっている。

ひとさじ口に入れ、かぼちゃの匂いが鼻に抜けると、ふかし芋をよく食べていた幼少期を思い出す。朝食に、デザートに、おやつに、よく食べていた。母が私の「おつうじ」の悪さを気にして用意してくれていた。家庭菜園にサツマイモを植えたこともあったな。サツマイモの汁は真っ白くて、手に付くと簡単には落ちない。生のサツマイモは少し甘くてシャキシャキしているけれど、渋みのようなものがあって、あまり食べられたものではない。そういうことを思い出す。

日曜だというのに珍しく朝からテキパキと動いている家主は、葬儀に出掛けると言って家を出ていった。そう言われると、この雨も何だかそういうもののように見えてくる。勝手なものだ。

私も早く出るはずだったけれど、少し気を落ち着かせてコーヒーを飲む。

時計の針の音、遠くの車の音。大きな窓、うっすらと差し込む自然光、テレビ台の裏に落ちる影。部屋の灯りはつけない。

何となく沈んだ気持ち。でも少し沈んだぐらいのほうが揺るがず据わりが良くて楽だと思う。

上がったはずの雨がまた落ち始めた。そろそろ身支度をするか。コーヒーを飲み干す。

着地点は

落ち込んでいるときは、自分が世界一不幸で、この世の誰も経験したことのないつらさを味わっているような心持ちになる。けれど客観視してみると、世界にとっては日常茶飯事で、その日だけでも何千回何万回と繰り返されていることだったりするから、「そんなことで落ち込んでるんじゃないよ、みっともない」とも思う。

つらさは人と比べるものじゃない、日頃は人にそう言っていたけれど、本当にそうか?と今日は思っている。わざわざ比べなくても構わないけれど、やっぱりつらさには大小がある。こんなことで歩みを止めている場合ではないし、勝手に落ち込んだところで状況は何も変わらない。

しっかりしろ。今できることをやれ。逃げるんじゃない。

今できることは何だ。できることがあるならばやれ。やらずにクヨクヨするぐらいならやれ。やっても後悔しないことならば、遠慮なくどんどんやれ。やってしまえ。

できることはまだある。落ち込んだところでここは行き止まりではない。良くも悪くも、着地はまだ先なんだ。

西日の中

私たちは今、西日の中にいる。

夜遅くに仕事から帰ると、モモが目を覚まして脚にすり寄ってきた。モモはいつも私を出迎えて首筋をゴリゴリと私のすねにこすりつけてくる。けれど最近はそのパワーも弱い。

外に出たい、とカーテンに爪を立てる。早く帰った日は少し散歩も許してやったけど、さすがにてっぺん越えだ。夜だからもうだめだよ、明日にしよう、と人間の言葉でたしなめる。

22歳にしては一丁前にジャンプもするから、ソファでグーグー寝ることもざらだ。しかし今日はソファの背を踏み台にしてキッチンカウンターに飛び乗り、遅い夕食を作る私を覗き込んできた。調理台はさすがに危ない。いろいろな小物をなぎ倒す恐れがあるし、何より包丁も火も使っている。こんな所まで登ってくることは今まで一度もなかった。何してるのやめてよ、とモモを抱えて床に降ろす。

ふと、脚の付け根に肌色が見えた。よく見ると、そこだけ皮膚が剥がれて肉が剥き出しになっている。ヒィ、と思わず仰け反った。当のモモは傷口を過度にかばう様子もない。痛くないのだろうか。いやそんなはずは。いつから、なぜこんなことになっているのだろう。

私が少し目をそらすと、早々に眠った家主の部屋に向かって「オアオゥ」と大声で鳴き出した。こんな時間に叩き起こしてはかわいそうだ。1週間ほど家主が出張だった間は寂しがっているのかな、と様子を見ていたけれど、家主が帰ってからも止む気配はない。「オアオゥ」『モモちゃん!こっちおいで』のやり取りは夜中の3時頃まで続いた。

朝は朝で、6時前には例の「オアオゥ」が始まる。もちろん眠いけれど、庭の水やりも兼ねて相手をする。

私が朝食の支度でキッチンに立つと、またカウンターに登ってきた。調理台からシンクに降り、ボウルに溜まった水をペロペロ舐めている。傷口に気をつけながらモモを降ろすと、日に日に胴まわりが細くなっていることに気がつく。

インターネットによれば、徘徊や夜鳴き、異常行動はすべて痴呆の代表的な症状ということだった。そうか、22歳だもんな。

今だから、今のうちだから言うけれど、モモはもうじき死ぬ。痴呆だけでなく食も細っているし、年齢的にも間違いないだろう。これから私は生活を共にした生物の死にゆく過程を目の当たりにすることになる。葬式には幾度も立ち会ったけれど、死と伴走するのは初めてのことだ。

遅れて起きてきた家主も、モモの喚きようにはさすがに閉口した。「やっぱりおかしいねコイツ」昨夜の夕食に出したモモ用の刺身がすっかり残っている。「猫の熱中症なのかねえ、マグロが嫌ならモモの好きなカツオ買ってきてあげるよ」

そんなわけないじゃない。きっと家主も分かっている。認めたくないから、しらばっくれている。

老いや死から私たちは逃れることができない。絶対にだ。猛ダッシュで振り切ったように見えて、確実に近付いている。老いや死は、近くで見るとこんなにも恐ろしいものなのか。それを今、私たちはまじまじと見ている。

勘付いてないふりをして、私は逃げるように仕事場へと出掛けた。逃げられてなんかいないのに。本当はモモを病院に連れて行ってやりたかったが、それも叶わない。残り少ない夕暮れをどう過ごせばいいのか、この数日考えあぐねている。

10日目の風呂

「ねえねえ姉ちゃん、歳いくつ?」

シンプルに不愉快だった。年齢を言うこと自体に抵抗はないが、何の恩義もない輩に好き勝手消費されるほど安く歳を重ねたつもりもない。馬鹿なふりをして「え、何でですか?」と質問に質問で返した。

「ウチの会社でさあ、総務の採用募集出してんのよ」

仲間の一人が話を進めるべく口を開いた。なんだ、ウチで働かないかという話か。酒の肴に冷やかそうとしているものと思い込んでいた私は、そんな下衆な話もないものだと安堵し、疑ったことを少し申し訳なく思った。

「そしたらさあ、これ見てよこれ」

まくし立てるように、手元の履歴書をこちらに見せてきた。

「70歳の女の人が申し込んできたの。こんなのある?70歳の人の履歴書なんて俺見たことないよ。ねえ、ある?こんなのさあ!」

驚いた。世の下品に底があると思っていた私が愚かだった。地球には引力がある。努力なしに上には行けないが、何もせずとも下には無限に行けるようだった。

人生100年時代だというのにこいつは何を言っているのだろうか。70歳でもまだ30年残っている、70歳からのセカンドキャリアなんて有能以外の何者でもない。それなのにこいつらは期待はずれとばかりに呆れ返っている。ちょっかいを出せる若い女性が来ることを期待していたのだろうが70歳では何の娯楽にもならない、といったところか。何のための採用募集だ。百歩譲ってそんなになら年齢制限を設ければよかったのに、何も書かなかったのが悪い。っていうか応募者の個人情報なんて会社の機密情報じゃないのか。ずさんにも程がある。そもそも自分たちだって大概若くないくせに「明日は我が身」だと思わないのか。お前らも言われるんだぞ、同じことを。

同世代の母が言われているような気分にもなって、それも胸糞が悪かった。

まるで10日目の風呂を見ているようだった。濁ったぬるま湯、匂いを嗅ぐだけでこちらまで汚れそうだ。会社に骨を埋めてこうなることだけは避けなくてはと思いながら生きてきたけれど、本当にこうなってしまった輩は初めて見た。一周回って、すごい。

居酒屋で働いていると、頭のネジを緩めすぎて目も当てられない様になっている人間を時々見る。履歴書の女性がこの会社を落ちますように、と私は願った。これから働こうとしているあなたは、10日目の風呂で汚される必要なんか毛頭ない。

粋な香典返し

もうすぐお茶を飲み終える。

数年前に鬼籍に入られた方の香典返しに頂いたお茶だ。開けるのがもったいない気がして、頂いてから何年もそのままにしていたけれど、飲まないほうが不義理なのではないかと思い直し封を切った。

茶葉の形が分かるようなカチカチの真空パックに鋏を入れた瞬間、アルミの袋はふわっと柔らかくなった。同時に茶葉の新鮮な青い匂いがその場に立ちこめた。何年前の「新鮮」だろう、この「新鮮」が封じ込められたときはあの方もご存命だったのではないか。不思議な心持ちになる。

湯を沸かす。スプーン1杯の茶葉を急須に入れる。沸いた湯を湯呑みに注ぐ。本来ならその湯は捨てるのだけれど、暮らしの上ではもったいないから、それをそのまま急須に移す。5つ数えて、ゆっくりと湯呑みに茶を注ぐ。実家ではそんなことを教わりもしなかった。でもこうすると鼻の奥に香りが抜けるような芳しい緑茶が入る。とてもおいしい。それは、あの人が下さったお茶が上質なものだったからだろうか。学のない私には、茶葉の良し悪しまでは分からない。

もうすぐ茶筒が空く。茶葉を使い終えてしまう。茶葉が切れたら私は、粋を教えてくださった人懐っこい先輩を忘れてしまうだろうか。茶葉が切れたら私は、新しい茶葉を自分で選びに行こうと思う。茶葉のイロハを学んで、少しでも先輩の粋に近づこうと思う。

去年と今年と来年

積極的に応援しているわけではないけれど、バカリズムの年に一度の単独ライブにはほぼ毎年行っている。

お笑いなんて今やテレビでいくらでも観られるけれど、バカリズムライブは安くないチケットの争奪戦をしてでも選ぶ理由があるなあ、と実感する。何せ打率が完全に違う。大振りのスラッガーは他にもいるけれど、ホームラン以外ももれなくヒットで出塁する。点に繋がらない打席がない試合なんて、観たいに決まっている。

バカリズムライブは年に一度だから、その年ごとの違いがよく表れる。やたら悪態をつく年や、やたら下ネタに走る年も過去にはあった。仕事が忙しいのだろう、嫌なことがあったのだろう、と升野英知の一年がそのまま投影されているようで、その点も興味深い。

今年最後のネタは、死期迫る老人が病院で人生を振り返るというものだった。冴えない人生には早々に見切りをつけて徳を積むことに専念し、来世に賭けようと妄想を繰り広げる。いよいよ最期、という瞬間、来世で使いまくるつもりだった徳が思わぬ形で返ってきてしまう……というもの。

升野さんも40歳を過ぎて何か人生に思うところがあるのだろうか。コンビでネタをやっていた頃、期せずしてピンになり、フリップネタでブレイクした頃、テレビタレントとしてバラエティー番組に出始めた頃、脚本や小説に注目が集まった頃。升野さんも、それを見ていた私も、すっかり歳をとってしまった。毎年恒例のこのライブは定点観測の向きもあるのかもしれない。お互いにとって。

最後のセリフ「ここ!」はこのネタの天丼なのだけれど、とても愛らしいオチで、少し泣いた。笑いに来ているのに、泣かされたのはたぶん初めてだと思う。来年はどんなネタを見て、どんな気持ちで帰るだろうか。